UMINY

1/03/2012

1/03/2012

毎年おくればせながらのご挨拶。


2012年、


全ての人たちが、

もっともっと笑顔になれますように。


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走りに走った2011年。

その締めくくりは、




「あのね、

必要なものはもうすでに、

そこに用意されているんだよ。」






という、

なんだかとっても気になる言葉と、

あったかい抱擁。




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「目の前にあるリアル」に、

じっくり向かい合って、

とことん向き合って、




そこからじわじわ絞り出された栄養を糧としていくような年らしいぞ、


2012年。
(石井ゆかり2012年報)





そういえばこの間、胃を壊して思ったのだけれど、

食物が栄養になる過程って、そんなに単純なものではないらしい。



カラダに良いものを、と思って、

カラダに良さそうな響きのする食物を、


のべつまくなしに選びに選んで食べていたのだけれど、



そういう食物に限って、


また、カラダが弱っている時は特に、


「良く噛まなきゃいけない」


ということを、すっかり忘れていた。




いつもの、流し込むように食べるランチ。


それでもってカラダに良いとされている食物は大概、消化が悪い。


だって、よく嚼んで、


じっくり消化されてこその栄養ですから。


玄米をお茶漬けのように食してはいけません。





なんてこったい。







異質のものを、

時間をかけて自分に「なじむ」ようなカタチにすることは、
(考える、変える、「嚼みくだく」!)


それだけでも難しいのに、


時として、自分が欲しているものなのかどうか、わからなくなることもある。



迷い。





栄養になるまでに、

おなかもぐるぐるするし。


不安。





とりあえず「入れとけよ」みたいなところもあるので。








「必要なものはもうすでに、

そこに用意されているんだよ。」







栄養を「栄養として」吸収しようと思ったら、

やっぱり固そうなものは、


それだけ時間をかけて嚼まなきゃいかん、ということで。




こんなにカラダに良いものを食べているのに、


だるいのはなんでだろう?

重いのはなんでだろう?





結果が現れない、つまり、

見えない、わからない、ということは、


間違っている、ということでは決してないと思いたい。



そのときの状況や、


見えるようになるまで労力をはかったところで初めて、


自分が「どう言うか」が、





自分で決められる。



だって、


いつだって、

必要なものは、そこにある。

11/15/2011

本日のシコウカイロ





お題:百匹目のサル




これは生物学上の現象ですが(本当ならば)、全く以て心理学ですよね。




ちなみにサル学の権威・河合雅雄さんは、臨床心理学の第一人者でありわたしが好きな本の著者でもある河合隼雄さんのお兄さんです。


これまた不思議なリンク。






「サルでもできる」というのは人間の奢りであって、


「サルだからできる」といいますか。




進歩した(しすぎた!?)人間は余計なものを身にまといすぎて、


実はちょっぴり後退しているんじゃないか、と思う事があります。




サルと人間の中間くらいがいいんでしょうかね。


想像するに、


iPodやコンピューターを使いこなすサルなんて、接しづらくてしょうがないです。




それぞれに、ピュアというか、


シンプルなのが一番すてきだと思うのですけれど。




でも、そういった存在がしばしば差別というか虐げられがちなのは複雑な気持ちです。


自分だって、




そんな風に生きるには、かなりの勇気がいります。




どうも、シンプルにいかない世の中になっているようです。








でもせめて、


いつか、


何らかのカタチで、




自分が100匹目のサル「みたい」になれるように頑張ります。






シンクロニシティ=意味のある偶然の一致


http://ja.wikipedia.org/wiki/シンクロニシティ






ヒトリゴト:明日はどんなシコウカイロだろうか。

10/04/2011

さて、



休まねば、

休まねば、と思っているうちに、



どんどんそれができなくなってきて、




あっ、


という間にカレンダーがびっしり真っ赤になっていた。




しかもちょっと、風邪気味。




がんばる自分を褒めるべきか、


追い込んだ自分を悔やむべきか、


選択の余地がない星占いを恨むべきか、、、





やっぱこれだな。




Skittles Vodka


こないだおじゃましたパーティーにてホストが4日前から仕込んでいた飲み物。

Skittlesを色ごとに丁寧により分けてウオッカにつけ込んだ、


かなりこゆーい、



お子さま用風邪シロップのようなお酒。




「子供の風邪シロップみたいじゃーん」


なんてからかっていたのですが、



どうやら必要になってきたみたい。




からかって、ごめんよ。





ついでに:ワイン2ケース常備中。

どんだけ飲むんだろか。。。

9/20/2011

あれから、


2年後のお財布はこちら。




今やボロボロあおみどり(←これ)



今回も同じお店で、

ちょっぱやで、

同じところのお財布を。



使い勝手を考えて、ちょいと長くなってますが。



あとね、ひみつですがね、


中は「きいろ」なんです。



金運が、ぐんと良くなるように、ね。



見かけはこんな、冷めた奴ですけれど、



がんばるからさ、



よろしく。




ひとりごと:かばんの中でお財布がみつけやすくなったぞ。


8/14/2011

洗濯日和


本日、大雨ナリ。


そして、よりによってそんな日を選んで散歩に出かける物好き。


というか、散歩は雨の日にするもんだ、ということになっています。


緑も、きらきら。


世界中が雨で洗い流されて、どこもかしこもお洗濯。


















洗剤いらず。

ぶらぶらしているうちに、わたしの薄汚れたレインブーツもピカピカに。




それから、雨の日の散歩においては、「雨宿り」という一大イベントは必須。


だって、雨が降らなければ、「雨宿り」はできないもの。



とりあえず、


雨宿って、飲む。


それでもって、腹ごしらえ。


確認ですが、


これはお酒の量が多いブランチではなくて、「雨宿り」


思う存分くつろいで、


さあ、散歩続行ぞ、

と意気込んで出て行ったものの、

そこにあるはずの、

雨天の散歩には命の次に大事と思われる、



「傘」がない。

どこにも、ない。



誰かと一緒に、どこかへ新たな散歩へ行ってしまったみたい。





そそくさ、退散。





半泣きで、力強い雨の中を歩いていると、


なんだか滝に打たれて修行している気分になって、


家に着く頃には、アルコールもすっかり抜け出て、


ひたすら笑いが込み上げてきた。




ココロの灰汁もちょっとは抜け出たかしら。





7/18/2011

手紙


ここに、どこにも行けなくなってしまった手紙がぽつり。

いつかあなたが読んでくれる事を願って。


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「Soy Milkは乳(ちち)を大きくする成分が入っているらしいから飲むのやめる」


という彼の意見により、最近ウチは専らAlmond Milkになりました。よって今すすっているコーヒーもAlmond Milk入りです。


Soy Milkはわたしの乳(ちち)は大きくしてくれなかったけれど、


まあ、わたしにとってはどちらでもOKで、
そんな感じで今、コーヒー片手にこれを書いています。


本日は見事な曇り空。横にあなたがいたら「頭痛、大丈夫?」と思わず聞いてしまいそうな、
まさに典型的「どんより」です。今、外を見ていて思い出したんだけど、最近、雨に追いかけられる夢を見た気がする。「気がする」というのは、なんとなくイメージが残っているだけで、


夢だったのかどうかは定かではない、という意味で。


アルケミストの中で、砂や風や太陽が「喋る」でしょ。
わたしの「雨」も喋りだしそうな勢いだったよ。


あなたがウチに寄贈してくれた本、大切に読んでいます。
最近、食い入るように読んだのは『仏教が好き』。


きっとずっと前に借りて読んだ事があったと思うんだけど、これは名著だな、面白い。
政治家なんかよりずっと真剣に「日本」(世界の中における)について考えてると思った。


『こころの声を聴く』の村上春樹との対談の中に、


 『日常のレベルというのは、もっと深い所が動かしている、日常レベルでアップアップしているときに、いや、そうじゃないんだ、もっと深い意識があるじゃないか、そこで自分は生きているんだ、そういうことをやるのが、僕は物語だと思う。』


という河合隼雄の言があって、


形は違うけれど、臨床心理の現場も、仏教も、物語も、ある種の芸術も、そういうライン状にあるんだな、と思ったよ。


数えきれないほどの本たちを媒体にして、わたしとあなたが何気なくしていた会話の中にも、そういうものがあったんじゃないかな、と今になって思ったりしています。


村上春樹の表現を借りれば、「井戸掘り」をしていたんだなあ、と。


むかし、わたしの友人が山登りの話(覚えてる?)をしてくれたけれど、今のわたしとしては「下に降りて行く」イメージの方がしっくりくるな、と。


 『自我を離れてすーっと下に降りて行くと、そこには「存在」というものしかなくなる。ほんとうの底の方まで行くと、ある種の通じ合いのようなものが成立するんじゃないか。』


と、村上春樹は語っていますが、


「これって仏教じゃん」


だから彼が仏教徒だというんじゃなくて、


ああ、仏教って宗教じゃないのかもな、と。


もちろん、宗教に属するんだろうけれど、その考え方というか、涅槃に至るプロセスみたいなものは、ものすごく「心理学」だなあ、と。
だからといって「心理学=仏教」という訳でもないんだけれど。




『海辺のカフカ』のナカタさん、


あのズレた話し方の「ズレ」の中には、ものすごく、果てしなく、下の方、底の方まで降りてしまってもう、ほとんど悟りの境地に至った生き仏みたいな雰囲気があるよ。
だからきっと猫ともお話ができるんだ(笑)


だってあの人の名前、「サトル」だもの。


村上春樹がそこまで意図していたかどうかはわからんが。




昼の12:00ごろからこれを書き始めて、もう今2:15です。
かなり時間かかってるわ。前からそうなんだけど、時間かかるのよ、手紙書くの。
まだごはんも食べてませんけど、ビール飲みます。
本当はワインが好いんだけど、買いに行かねばならぬので今はビール。


酒と言えば、わたしは相変わらず毎日飲んでいる訳なんですが、
こないだ近所の酒屋さんで LELLET(白)を見つけて思わず買ってしまった。


楽しかったな、あのビストロ。


大食いのアジア人女2人が「LELLETの酒瓶を見せろ」とお店のお姉さんに絡むの図。
映画にして欲しいわ。


『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のわたしのすごく好きな場面、主人公の男性と図書館の女の子(胃拡張の)が2人でイタリア料理を食べに行くところ。
シェフもびっくりするくらいの、ものすごい量の料理を2人でぺろりとたいらげて、食後にシェフがあいさつにテーブルに来るシーンがあるんだけど、


あのディナーは、わたしのなかではそれにものすごく近かって、思い出すたびにニヤニヤしてしまいます。


あらら、かれこれ4時間近くなってしまった。
ビール飲んで、ポテチ食べていたら本格的にお腹が空いてきたので、やきそば作ろうかと思います。


しのびも起きてきて、窓際に丸くなって外を見ています。


気が付いたらちょっと太陽が出てきてた。


いいね、なんかこういう午後も。ゆったりです。


また書くね、いつかまたお目にかかれる日を楽しみに。


5. 01. 2011

4/21/2011

引き出すもの


ここ数週間は、


「おいおい、まだ言うか」

と思ってしまうほど、

立て続けに色々言われて、



懸命に抑えようとしても、

顔に出てるのが自分でも分かるくらい、

イライラしていた。




やることなすこと全てに文句を言われているような気がして、

「そんな風に言われると、もうどうしたらいいかわかりません」

って言ってしまった。




言った後で、

ちょっと考えて、


「ずっと言いたかったけど言えなかったこと」

が、躊躇なくすんなり出てきてくれて、


正直、「ああ、助かった」


って思った。



そんな風にならないと、必要のない我慢をしていた自分に気が付かなかったから。






「言わせてくれて、ありがとうございます」





懐の深さ、しみじみ。






今夜は:リレの日


フレッシュレモン+氷+炭酸水