毎年おくればせながらのご挨拶。
2012年、
全ての人たちが、
もっともっと笑顔になれますように。
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走りに走った2011年。
その締めくくりは、
「あのね、
必要なものはもうすでに、
そこに用意されているんだよ。」
という、
なんだかとっても気になる言葉と、
あったかい抱擁。
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「目の前にあるリアル」に、
じっくり向かい合って、
とことん向き合って、
そこからじわじわ絞り出された栄養を糧としていくような年らしいぞ、
2012年。
(石井ゆかり2012年報)
そういえばこの間、胃を壊して思ったのだけれど、
食物が栄養になる過程って、そんなに単純なものではないらしい。
カラダに良いものを、と思って、
カラダに良さそうな響きのする食物を、
のべつまくなしに選びに選んで食べていたのだけれど、
そういう食物に限って、
また、カラダが弱っている時は特に、
「良く噛まなきゃいけない」
ということを、すっかり忘れていた。
いつもの、流し込むように食べるランチ。
それでもってカラダに良いとされている食物は大概、消化が悪い。
だって、よく嚼んで、
じっくり消化されてこその栄養ですから。
玄米をお茶漬けのように食してはいけません。
なんてこったい。
異質のものを、
時間をかけて自分に「なじむ」ようなカタチにすることは、
(考える、変える、「嚼みくだく」!)
それだけでも難しいのに、
時として、自分が欲しているものなのかどうか、わからなくなることもある。
迷い。
栄養になるまでに、
おなかもぐるぐるするし。
不安。
とりあえず「入れとけよ」みたいなところもあるので。
「必要なものはもうすでに、
そこに用意されているんだよ。」
栄養を「栄養として」吸収しようと思ったら、
やっぱり固そうなものは、
それだけ時間をかけて嚼まなきゃいかん、ということで。
こんなにカラダに良いものを食べているのに、
だるいのはなんでだろう?
重いのはなんでだろう?
結果が現れない、つまり、
見えない、わからない、ということは、
間違っている、ということでは決してないと思いたい。
そのときの状況や、
見えるようになるまで労力をはかったところで初めて、
自分が「どう言うか」が、
自分で決められる。
だって、
いつだって、
必要なものは、そこにある。
1/03/2012
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