UMINY: 2011

11/15/2011

本日のシコウカイロ





お題:百匹目のサル




これは生物学上の現象ですが(本当ならば)、全く以て心理学ですよね。




ちなみにサル学の権威・河合雅雄さんは、臨床心理学の第一人者でありわたしが好きな本の著者でもある河合隼雄さんのお兄さんです。


これまた不思議なリンク。






「サルでもできる」というのは人間の奢りであって、


「サルだからできる」といいますか。




進歩した(しすぎた!?)人間は余計なものを身にまといすぎて、


実はちょっぴり後退しているんじゃないか、と思う事があります。




サルと人間の中間くらいがいいんでしょうかね。


想像するに、


iPodやコンピューターを使いこなすサルなんて、接しづらくてしょうがないです。




それぞれに、ピュアというか、


シンプルなのが一番すてきだと思うのですけれど。




でも、そういった存在がしばしば差別というか虐げられがちなのは複雑な気持ちです。


自分だって、




そんな風に生きるには、かなりの勇気がいります。




どうも、シンプルにいかない世の中になっているようです。








でもせめて、


いつか、


何らかのカタチで、




自分が100匹目のサル「みたい」になれるように頑張ります。






シンクロニシティ=意味のある偶然の一致


http://ja.wikipedia.org/wiki/シンクロニシティ






ヒトリゴト:明日はどんなシコウカイロだろうか。

10/04/2011

さて、



休まねば、

休まねば、と思っているうちに、



どんどんそれができなくなってきて、




あっ、


という間にカレンダーがびっしり真っ赤になっていた。




しかもちょっと、風邪気味。




がんばる自分を褒めるべきか、


追い込んだ自分を悔やむべきか、


選択の余地がない星占いを恨むべきか、、、





やっぱこれだな。




Skittles Vodka


こないだおじゃましたパーティーにてホストが4日前から仕込んでいた飲み物。

Skittlesを色ごとに丁寧により分けてウオッカにつけ込んだ、


かなりこゆーい、



お子さま用風邪シロップのようなお酒。




「子供の風邪シロップみたいじゃーん」


なんてからかっていたのですが、



どうやら必要になってきたみたい。




からかって、ごめんよ。





ついでに:ワイン2ケース常備中。

どんだけ飲むんだろか。。。

9/20/2011

あれから、


2年後のお財布はこちら。




今やボロボロあおみどり(←これ)



今回も同じお店で、

ちょっぱやで、

同じところのお財布を。



使い勝手を考えて、ちょいと長くなってますが。



あとね、ひみつですがね、


中は「きいろ」なんです。



金運が、ぐんと良くなるように、ね。



見かけはこんな、冷めた奴ですけれど、



がんばるからさ、



よろしく。




ひとりごと:かばんの中でお財布がみつけやすくなったぞ。


8/14/2011

洗濯日和


本日、大雨ナリ。


そして、よりによってそんな日を選んで散歩に出かける物好き。


というか、散歩は雨の日にするもんだ、ということになっています。


緑も、きらきら。


世界中が雨で洗い流されて、どこもかしこもお洗濯。


















洗剤いらず。

ぶらぶらしているうちに、わたしの薄汚れたレインブーツもピカピカに。




それから、雨の日の散歩においては、「雨宿り」という一大イベントは必須。


だって、雨が降らなければ、「雨宿り」はできないもの。



とりあえず、


雨宿って、飲む。


それでもって、腹ごしらえ。


確認ですが、


これはお酒の量が多いブランチではなくて、「雨宿り」


思う存分くつろいで、


さあ、散歩続行ぞ、

と意気込んで出て行ったものの、

そこにあるはずの、

雨天の散歩には命の次に大事と思われる、



「傘」がない。

どこにも、ない。



誰かと一緒に、どこかへ新たな散歩へ行ってしまったみたい。





そそくさ、退散。





半泣きで、力強い雨の中を歩いていると、


なんだか滝に打たれて修行している気分になって、


家に着く頃には、アルコールもすっかり抜け出て、


ひたすら笑いが込み上げてきた。




ココロの灰汁もちょっとは抜け出たかしら。





7/18/2011

手紙


ここに、どこにも行けなくなってしまった手紙がぽつり。

いつかあなたが読んでくれる事を願って。


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「Soy Milkは乳(ちち)を大きくする成分が入っているらしいから飲むのやめる」


という彼の意見により、最近ウチは専らAlmond Milkになりました。よって今すすっているコーヒーもAlmond Milk入りです。


Soy Milkはわたしの乳(ちち)は大きくしてくれなかったけれど、


まあ、わたしにとってはどちらでもOKで、
そんな感じで今、コーヒー片手にこれを書いています。


本日は見事な曇り空。横にあなたがいたら「頭痛、大丈夫?」と思わず聞いてしまいそうな、
まさに典型的「どんより」です。今、外を見ていて思い出したんだけど、最近、雨に追いかけられる夢を見た気がする。「気がする」というのは、なんとなくイメージが残っているだけで、


夢だったのかどうかは定かではない、という意味で。


アルケミストの中で、砂や風や太陽が「喋る」でしょ。
わたしの「雨」も喋りだしそうな勢いだったよ。


あなたがウチに寄贈してくれた本、大切に読んでいます。
最近、食い入るように読んだのは『仏教が好き』。


きっとずっと前に借りて読んだ事があったと思うんだけど、これは名著だな、面白い。
政治家なんかよりずっと真剣に「日本」(世界の中における)について考えてると思った。


『こころの声を聴く』の村上春樹との対談の中に、


 『日常のレベルというのは、もっと深い所が動かしている、日常レベルでアップアップしているときに、いや、そうじゃないんだ、もっと深い意識があるじゃないか、そこで自分は生きているんだ、そういうことをやるのが、僕は物語だと思う。』


という河合隼雄の言があって、


形は違うけれど、臨床心理の現場も、仏教も、物語も、ある種の芸術も、そういうライン状にあるんだな、と思ったよ。


数えきれないほどの本たちを媒体にして、わたしとあなたが何気なくしていた会話の中にも、そういうものがあったんじゃないかな、と今になって思ったりしています。


村上春樹の表現を借りれば、「井戸掘り」をしていたんだなあ、と。


むかし、わたしの友人が山登りの話(覚えてる?)をしてくれたけれど、今のわたしとしては「下に降りて行く」イメージの方がしっくりくるな、と。


 『自我を離れてすーっと下に降りて行くと、そこには「存在」というものしかなくなる。ほんとうの底の方まで行くと、ある種の通じ合いのようなものが成立するんじゃないか。』


と、村上春樹は語っていますが、


「これって仏教じゃん」


だから彼が仏教徒だというんじゃなくて、


ああ、仏教って宗教じゃないのかもな、と。


もちろん、宗教に属するんだろうけれど、その考え方というか、涅槃に至るプロセスみたいなものは、ものすごく「心理学」だなあ、と。
だからといって「心理学=仏教」という訳でもないんだけれど。




『海辺のカフカ』のナカタさん、


あのズレた話し方の「ズレ」の中には、ものすごく、果てしなく、下の方、底の方まで降りてしまってもう、ほとんど悟りの境地に至った生き仏みたいな雰囲気があるよ。
だからきっと猫ともお話ができるんだ(笑)


だってあの人の名前、「サトル」だもの。


村上春樹がそこまで意図していたかどうかはわからんが。




昼の12:00ごろからこれを書き始めて、もう今2:15です。
かなり時間かかってるわ。前からそうなんだけど、時間かかるのよ、手紙書くの。
まだごはんも食べてませんけど、ビール飲みます。
本当はワインが好いんだけど、買いに行かねばならぬので今はビール。


酒と言えば、わたしは相変わらず毎日飲んでいる訳なんですが、
こないだ近所の酒屋さんで LELLET(白)を見つけて思わず買ってしまった。


楽しかったな、あのビストロ。


大食いのアジア人女2人が「LELLETの酒瓶を見せろ」とお店のお姉さんに絡むの図。
映画にして欲しいわ。


『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のわたしのすごく好きな場面、主人公の男性と図書館の女の子(胃拡張の)が2人でイタリア料理を食べに行くところ。
シェフもびっくりするくらいの、ものすごい量の料理を2人でぺろりとたいらげて、食後にシェフがあいさつにテーブルに来るシーンがあるんだけど、


あのディナーは、わたしのなかではそれにものすごく近かって、思い出すたびにニヤニヤしてしまいます。


あらら、かれこれ4時間近くなってしまった。
ビール飲んで、ポテチ食べていたら本格的にお腹が空いてきたので、やきそば作ろうかと思います。


しのびも起きてきて、窓際に丸くなって外を見ています。


気が付いたらちょっと太陽が出てきてた。


いいね、なんかこういう午後も。ゆったりです。


また書くね、いつかまたお目にかかれる日を楽しみに。


5. 01. 2011

4/21/2011

引き出すもの


ここ数週間は、


「おいおい、まだ言うか」

と思ってしまうほど、

立て続けに色々言われて、



懸命に抑えようとしても、

顔に出てるのが自分でも分かるくらい、

イライラしていた。




やることなすこと全てに文句を言われているような気がして、

「そんな風に言われると、もうどうしたらいいかわかりません」

って言ってしまった。




言った後で、

ちょっと考えて、


「ずっと言いたかったけど言えなかったこと」

が、躊躇なくすんなり出てきてくれて、


正直、「ああ、助かった」


って思った。



そんな風にならないと、必要のない我慢をしていた自分に気が付かなかったから。






「言わせてくれて、ありがとうございます」





懐の深さ、しみじみ。






今夜は:リレの日


フレッシュレモン+氷+炭酸水


4/12/2011

モモ

時間って、

外的要因ではなくて、

自分の「内」にあるものだよ、と、



この、

ちいさな女の子が、

改めて教えてくれました。





人も、動物も、物も、それらを包み込む自然にも、


それらを存在させうる空間があり、


それはつまり、それらを存在せしめる「時間」の入れ物なんだとすれば、



わたしも、


自分が自分として存在している、



「時間」を入れる、器として。




とてつもなくめまぐるしい時間が、


ちょっとスローになったような。



********************************


いつのまにか大きく膨らんでいた、マグノリアのつぼみ。


しばし目が離せなくなって、足がとまった、


今朝のわたしの「時間」






おまけ:だから「モモ」ってなんなのさ?



これさ。




いい本だ。

3/12/2011

今日の「私」より


眠りを破った、1本の電話。




「日本が大変な事になってるよ」




もう、心配で心配で、

眠る事ができませんでした。



*******************


昨日の「私」が感じていた、

「はずかしさ」や「自信のなさ」

なんていう気持ちが、




ぶっ飛んだ。





「失敗」したら怖い、
なんて言っていられないような状況が目の前にあり、



それがいかに「甘え」であるか、


そういう風にああでもない、こうでもない、と考えられる状況にいるということが、

いかに恵まれたものであるのか、


「あたりまえ」にそこに存在するものが、

いかに「貴重」なものであるか、



ひしひしと肌身で感じる。





「不安」でどうしようもない状況は、


「自然」を前にしたら、人間はものすごく無力であり、


「選ぶ」ことができる、ということは、

当たり前のことのようでいて、実は当たり前ではないのだ、

ということを、


目の当たりにさせ、


今、目の前に「ある」、


電気も、ガスも、水も、食料も、地下鉄も、飛行機も、



むしろ、


「特別」なものなのだ、ということを、


否が応にも感じさせる。






被災で亡くられた方々のご冥福を祈るとともに、

被災地の復興が一日も早く進む事を、

そして、

連絡が取れずに不安な日々を送られている方々に、

笑顔が戻りますよう、


心からお祈りいたします。

3.12.2011

umi






3/10/2011

明日の「私」へ



「自分」と、

周囲が見ている「私」の距離が、


離れて行くような気がしています。




自分が自分ではないような気持ち。



できることなら「そこ」に追いつきたいのだけれど、


何が欠けているのかは、十分過ぎるくらいわかっているのだけれど、


「はずかしさ」や「自信のなさ」が、


そうさせてくれない。


「ここ一番」にからっきし弱い、


大事なところで「ヘマ」をする。



どうしよ。

どうするよ!?


「勝負」は明日なんですけど、


寝れないな、今日は。






こんな自分で、いいんでしょうか?





3/02/2011

ないものねだり


今更、

なのはわかっているのですが、

最近、

あんなに逃れたかった状況やら感情やらが、

ものすごくいとおしくなる時があります。



去り行くものへの執着か、

留まるもののエゴか、




状況次第でこんなにも変わってしまう人間の心って、


「?」





でも、それはきっと、

執着でもエゴでもなく、

全く逆の作業、

「受け入れる」ということ、

なのかもしれないな、と。





その時は、ものすごく難しかったことでも、

時間が経つと容易になる、ということがあったりして。


それでもって「時間」がもたらしてくれるものって、

たとえば、


気持ちの「余裕」だったりして。




過去と向き合う事は、

それなりの「覚悟」がいること。



そして、それを「受け入れられる」ということは、

それを何らかの「栄養」として取り入れる事ができる、ということ。



いとおしくなるほどの感情を抱かせる「それ」はきっと、


わたしが今、最も必要としているような、


もう一段階、わたしを上に押し上げてくれるような、


起こるべくして起こったような、


そんなパワーをもった、


可能性の、



「サイン」なのかもしれない。



結論:「ないものねだり」とはあらゆる「可能性」のサイン、である。


おまけ:この方の「可能性」は?



「もうすぐ、ごはんデスカ?」


2/26/2011

2.26.2011


カラダのあちこちにできた空白を埋めたくて、

とにかく色んなものをつめこんで、

ぐつぐつと煮込んでみました。





「はっ」と気が付くと、

ココロやカラダの中にマイナスなものが結構、

増えている気がして、

たまに、プラスな(風味な、雰囲気な)ものを足してあげて、

「中くらい」になったらいいな、

と思っていたりするもので、

2週間に一回くらい、

とっても健康そうなものができあがります。






一見、「気休め」的なこの作業、

でも、

わたしには大切な、

切り替えスイッチ、なのです。


  


         


そういえば、檀ふみさん選考のエッセイ集「バナナは皮を食う」の中の、

平塚らいてう『陰陽の調和』

には、

彼女流の健康法として

「陰性のたべものには、必ず、陽性のたべものを、陽性のたべものには必ず陰性のたべものを配するようお献立を工夫する」

とありますが、

これって、カラダの健康だけではなくって、

ココロにも通じているんだな、と思って、


「ああ、やっぱりバランスが大事なのね」

と、

また違う角度から、

同じことに辿り着いたりして。




「いつも真ん中ってやっぱり難しいわ」

とぶつぶつ言いながら、


人に自分の姿を映してみたり、

そろそろ軌道修正かしら、と思ってみたり、


色々やって、疲れて、楽しんだ末に、

栄養たくさん(らしき)ものができあがると、


「ああ、今、真ん中だ」




バランスをとるのって、

つまり、わかっていてもなかなかできないことというのは、

きっとたくさん回り道をしながら、

ふっと気付いたら「そこ」だった、って、

そのくらいの「いいかげんさ」があってもいいのかな、

と思う今日このごろ。





風邪も回復中ナリ。



1/13/2011

1.13.2011


サムイヨルハ、



ツキガ、アオイ、

オチャガ、オイシイ、

ネコガ、コノウエナク、アタタカイ。


ワルクナイ。